情熱を注ぐ

哲学

 生徒には一生懸命に取り組んでほしいです。

 それが大学での専門につながるかどうかは分かりません。ましてや、社会人になったときに従事する分野に直結するかどうかとなると、見当もつきません。

 しかし、何かに情熱を傾けるのはいいことです。

 情熱を燃やせる分野を持つことが、人の幸せの大きな部分を占めていると思います。

 まず、仕事に情熱が持てるのは素晴らしいことです。

 あるテニスの知り合い(全日本ベテランテニスのチャンピオン)が、仕事は生活のためにやっているだけで、何の情熱もないと言っていましたが、あまり賛同できません。

 テニスをしている時間より仕事の時間の方が圧倒的に長いですから。

 私個人は20代後半に数学を教える仕事に就いた後、徐々に自分のスタイルが見えてきて、50前後でこの仕事が天職だと思えるようになりました。6冊の本(数学参考書3冊、エッセー、教育書、小説)を書いたのも、全て50以降です。

 ここで少し余談をしておくと、私自身が高校生のときは将棋のプロを目指し、文字通り寝食を忘れて将棋に打ち込みました。

 しかしあるとき、その分野で活躍するための才能が自分にないことを悟ったとき、どれだけ悲しかったでしょうか。とりあえずプロになって、普及の仕事をするのが自分には合っているのではないかと慰めを求めたこともありました。

 迷いはしましたが、最終的には奨励会退会を決意し、大学進学を目指しました。

 このとき、茫然自失とはまさにこういう状態であることを知りました。最初の3カ月ほどは、ふと気付けば将棋のことを考えていて、勉強に集中するのが非常に難しかったのです。

 一方、最も親しくしていた友人は19才でプロになり、その後しばらくしてタイトルを2つも取り、まさしく輝いているように見えました。経済的にも豊かになり、食事に出れば、稼いでいるからと言って、必ず彼がお金を出してくれました。

 要するに、今の私の仕事は最初から目指したものではなく、失意の中からやっと探し当てたようなものだったのです。その仕事にこれだけの情熱を感じるようになるとは不思議なものです。

 負け惜しみのように聞こえますが、将棋に才能がなかったことをむしろ感謝したいぐらいです。

 実際、仮に才能があって、若いころに活躍したとしても、50になってもその情熱を維持できるのだろうかと考えると、結構難しいものがあります。

 大天才羽生ですら、今、55になって、タイトルを争うような第一線では活躍できていません。もうかつての情熱を維持することができないのだと思います。

 話を戻して、仕事に情熱を持てるのは素晴らしいことです。そして、それが長く続けば続くほどいいと思います。

 それから、趣味に情熱を注ぐのも楽しいことです。

 ただし、どんな趣味でも、高みを目指して努力する過程は苦しいものです。

 私の場合、テニスとピアノに入れ込んでいますが、どちらも楽ではありません。

 何でこんなことをしているのだろうと疑問に感じるぐらいに追い詰められた後に、ようやく道が拓け、喜びをかみしめることができるのです。

 こうしてみると、大学受験は情熱を注ぐ分野を見つけるための準備運動のように見えてきます。

 クラブ活動等で疲れている中、自己管理して時間を捻出することが要求される場面もあるでしょう。

 自分の弱点と向き合い、その克服のために苦しい時期を通過することもあるでしょう。

 目標に届くかどうかのプレッシャーに耐え続ける必要があるかも知れません。

 しかし、本当に情熱を注ぐ分野を見つけたときに、こうして努力したことが意味を持ち始めます。

 数学はその後の人生で役に立つか、といったような直接的なご利益の有無を問うことには意味がないと思います。

 そういう損得を議論し始めると、英語はなくても生活できる、だとか、古文・漢文を使う場面はあるのか、といった具合にいくらでも学ばなくてもいい理由を探すことができるからです。

 もちろん、数学を学ぶことが楽しかったら一番いいと思いますが、仮に数学的真理に触れて興奮を覚えるタイプでなかったとしても、頑張ったことが後で必ず活きてくるので、一生懸命に取り組んでほしいと願っています。

 

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